左右若老場

政治・思想・経済等への雑感を吐いていくこの上なく面倒で不要な場とその主

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窓際部長が週刊誌を広げながら、公共工事の無駄に言及した記事にけしからんと頷き、酒の席で繰り返し述べる俺の考えってやつをここはブログにしたようなものだとお考えください。

 

当ブログの各種駄文をご覧になる前に以下を必ずご参照ください。

この時点で面倒だと思った方、帰るのが正解です。

 

テレビのワイドショーで司会者が好日/反日発言をしていた。貴方は・・

1 テレビ局に電話/手紙/警告状/デモ/示威で抗議した。

2 不愉快なのでチャンネルを変えた/消した。

 

コンビニのレジで年齢確認に身分証明書の掲示を求められた。貴方は・・

1 苛ついた/失礼だ/面倒だ/非常識/なんとなく嫌なので店員に抗議/ごねる/脅す/教育した。

2 指示通り掲示した。

 

そこそこ高めのレストランの食事の皿の上にハエの死骸があった。貴方は・・

1 店員を呼びつけ威圧しつつ謝罪/慰謝料を求めた。

2 店員を呼び料理の交換/取り下げを求めた。

 

自分の考え/持論/思想と相容れないブログ記事を見つけた。貴方は・・

1 そのブログ記事が思った通りに修正されるまで指摘/抗議/拡散/叩きをし、修正した場合でも過失を徹底的に追求し、そのブログが閉鎖するorブログ主が消えるまでそれらは続ける。

2 無視する。

 

ここまでの4項目のそれぞれの選択肢で1を選んだ方(一回だけでも)は、このブログが肌に合わない方ですので即刻お帰り下さい。無視する自由、見ない自由が貴方にはあります。

 抗議する自由もありますが当ブログは抗議されたくない自由を第一に考え、政界人でも財界人でもない非力な小市民の戯言として扱われることを望みます。

どうぞ人の為だとか名前も知らないみんなの為だとか正義感だとかに囚われず、もっと別なことに貴方の貴重な時間をお使いください。

利用する政治

世の中、会社の会議一つ取っても様々な事情を利用して思いのままに事を進めようとするのはよくある話だ。特に大企業の会議ともなればドラマのネタによくあるような派閥争いが日常茶飯事だろう。総じて利権争いと言い、政治と言う。

日本国という大企業も当然、この利権争いが日々行われている。国会でのくだらない与野党の言い争いも、失言一つをおおげさに追求してマイナス点を作ろうとする動きに過ぎない。なにも日本の国会だけがこうも稚拙なのではない。世界の国々も、社会全般がそうだと言える。大人の社会は表向きだけの清廉さを尊ぶという意味で、子供の学級会よりも質が悪い。

この1月に発生したイスラム国日本人拘束事件の犯人グループ。

ISIL・・・ISISの方がよく知られているテロリスト集団がその政治に利用されている。今回、残念ながら殺害された二人の命も政治に利用されている。

今回の誘拐事件を大局的に見れば、ISILが得たものはまた新たに周辺諸国に攻撃の大義名分を作っただけで、得られたものはなにもない。むしろ日本と繋がりの深い中東諸国にはISILに対し将来的に何かしらの融和策を見出そうとした時に、そのハードルを上げただけで、国家として承認される可能性をより低くしたといえる。これまで2014年8月に発生した日本人誘拐事件ぐらいしか接点の無かった日本にとって、今回の殺害は明確な形で日本に敵対するものであり、ISILと戦う各国に対する支援に大義名分を与える形となった。特に今回は2億ドルの人道的支援をISIL側は理由の一つとしていることもあり、つまりは現地の人々に医療行為や食糧支援などをするなと言われたと、そう考えることもできる。あとは難民の映像を背景に「彼らを救え!」とでも謳えば、日頃から人道を口にする連中には否定しにくくなるだろう。

というのは話の通じる相手だった時の話だ。殺害した犯人よりも自国の首相を非難する連中には真っ当な政治は通用しない。

政治利用しているという意味では日本政府も反安倍も同じである。だがその本質はかなり異なるだろう。

日本政府、安倍首相は今回の事件を機会に憲法9条改正による自衛隊の邦人救出を容易にする方針を2月3日に表明している。他にもさらなる中東諸国への人道支援も先に表明している。中東は原発停止以降、石油需要がさらに高まった日本にとって最も重要な地域だ。そこの人々が安定した生活を営み、教育を受けやすくなるようになることは将来の中東の安定化、つまり原油輸入の安定化に繋がる。そして憲法9条改正もまた、現行の有事法では法解釈にも限度があるということだ。実際問題、今過半数を占める与党が本気を出せば憲法改正をしなくとも自衛隊を他国の了承を得ずに人道的な目的で派兵することは可能だろう。私自身、そのような救出作戦が今の自衛隊に可能かという不安があるので望ましいとは言い難いが、米国の特殊部隊に必ず頼れるわけでもなく、また警察力でどうにかしようにも相手は軍隊の装備である。そんな敵を相手にするのは軍隊の仕事であるからして、自衛隊が万が一の時にできる活動の幅が広がることそのものは望ましい。後はそこに予算と装備がついてくれば文句なしだ。

一方、この事件を日本政府批判、安倍批判に持ってくる連中はどこに政治的目的があるのだろうか?

言うまでもなく安倍首相の辞任である。テロリストに人質が殺害された、それは政府対応がまずかったからであって、責任者たる首相は辞任するべきだ、と。

だがしかし現在、政府対応に問題がなかったことはほぼ明らかとなっている。より良かった対応策は色々論じられているが、周辺国であるヨルダンやトルコ、アメリカを始めとする諸外国も日本を非難していない。閣僚の動きも素早くヨルダン国王や現地部族長との接触、警察の対テロ部隊の準備や、安保理の非難声明を出させるなど、外交的な対応はむしろ早いといえるだろう。

そもそもISILが2億ドルの支援を理由にして誘拐した、というのではない。その前に誘拐して、そして安倍首相の2億ドル支援声明を後付で理由にしたに過ぎない。日本もテロの標的になったと騒ぐ連中がいるが、そもそも理由をつけようと思えば日米が同盟関係にある。それだけでISILには理由に出来るのだ。

さて戻って、ではそれらを答えた上で安倍首相を辞任させるべきだとするにはどうすれば良いだろうか?

一つは、結果が出なかったことだ。人質は殺害された以上、その責任を問うべきだというものだ。しかしこれで辞任するのなら、日本より遥かに人質事件が発生し死者を出している米英仏などは何人首相や大統領がいても足りないだろう。日本国内だけの不思議ルールでそうしろ、という風に打って出るだろうが、誘拐して人質を殺害するだけで日本の首相が辞任する先例を作ってしまえば、彼らは日本政治の混乱のために一ヶ月に一人は誘拐して殺したっておかしくはない。まさに辞任などしてしまったらテロに与する行為だ。もっとも安倍反対を主張する連中も、もし別の、例えば今の野党の議員が首相だったら辞任しろなどとは言わないだろう。代わりに人質を救えない自衛隊反対などと無茶苦茶を平然と唱えそうだが。

一つは、安倍首相の2億ドル支援を欠点とすることだ。しかしこれはそもそも誘拐が支援表明の前であるし、これを非難する国は一つも無い。このことを理由にするのなら、人道的支援すらするなと言っていることになるし、事実中東と関わるなという声もあると聞く。言い方が悪かったとする揚げ足取りもあるが、ISILが軍事支援でないことを認識していることは当の誘拐宣告動画にある通りだ。言い方の問題とはできまい。

となれば、やはり2億ドル支援をするのが間違いだったと言うしかあるまい。

反安倍、辞任を要求する連中はきちんとその理由を明確にするべきだ。

「私達は中東への人道的支援を許さない」「テロリストの言う通りにすべきだ」

その二点を明確に表さず、ただ抽象的に辞任を要求する卑怯な手立てしかできない連中の言動に、一銭の価値も無い。

と言い切るのも可哀想なので、一つ彼らがどのように動いているのかを語ってみよう。

単純な話、安倍首相が辞めることを求めているだけなのだ。そのためにはテロリストだって利用するし、殺害された人質も利用する。無茶苦茶な言動だろうが、子供以下の言説だろうが、とにかく喚いて安倍やめろをダダをこねる。それだけの存在が彼らだ。

ではそもそもなぜ安倍辞任にこだわるのか? 彼らにとってはまず、現首相であることが大きい。彼らの多くは力も夢も地位も名誉もない小市民に過ぎない。そんな彼らが首相という大きな存在を倒すという、革命ごっこを夢想しているのと考える。

民主の時にはそんな連中はいなかった。というのは彼らの上にいるであろう存在が、安倍自民党が都合が悪く、民主党が都合が良い。ただそれだけのことだ。つまり上に立つ存在が矛先を少し変えれば、彼らはいくらでも原発容認、憲法改正、アメリカ万歳になれる存在だ。そこに主義主張など感じられない。当然だ。彼らの多くは政治や社会が理解できず、爪弾きにされて生きてきた弱者だ。だから自身が役に立てる、力がある、そう夢想させてくれるのなら右でも左でもどちらでも良いのだ。

本来的にはそうした弱者を救うことで、国の安定に寄与できる。そうした仕組み作りはあるべきだと思う。だが如何せん、バカは死ななきゃ治らないという言葉があるように、世の中にはどうしても度し難い存在がいるものだ。その一つが彼らだろう。

見方を変えれば、彼らは弱者らしく吠えている。それをマスコミが利用して、反米や反日を腹に抱えている連中がまた利用する。その構図のダシにされている連中は、哀れに思いこそすれ馬鹿にする対象ではもはや無いのかもしれない。

陰謀論めいたことは言わない。日本政府も、ISILも、反安倍も、マスコミも、反米も反日も、すべて政治的な利権争いの積み重ねの上にある。そのきっかけや、あるいは芯として思想や感情はあるのだろうが。

 

私としては互いに主義主張を平和的に解決できる世界が望ましい。それは利権争いがない世界とまでは言わないし、政治的な争いも消えはしないだろう。

ただ今の状況はどうにも遠すぎる。国権の最高機関の場ですら、つまらない揚げ足取りが横行し、外を見れば基礎的な漢字も使えないプラカードが政治の末端としている。それをあたかも市民代表のようにマスコミが描き、それを見て我々が馬鹿にする。

今一度、全国民に対する教育が行われ、知的水準の底上げが必要だろう。

もっとも賢くなればなるほど世の中は合理的、省エネへと向かい、それをゆとり悟りと馬鹿にする連中が、今権力者として君臨しているのが日本だ。

世代交代にはあまり期待できない。連綿と受け継がれる知的水準の低い権力者、またはそれを望む権力者の支配構造。それをなるべくなら平和的に解決したいものだが。

革命を起こされるべき連中が、革命ごっこを夢見させているとはいやはや。勇者に適度なモンスターを与えて育てる魔王の如くではないだろうか。

犯人の素顔の暴露とは

7月14日の下校途中に行方不明となった女児が19日に保護された事件である。

これ自体はままある児童誘拐事件であるのだが、容疑者がイラストレーターだったり部屋にアニメのポスターが飾ってあったりとした部分が報道されたことで、オタク差別なのではないかと騒がれている。無論、世間的には日常の中に埋もれているのだが連日報道されていることもあって記憶から消えるという程ではない。

率直に言ってオタク叩きだと騒ぐのは過剰反応ではないかと私は思っている。問題がないとは決して言わない。だがこれでもってオタクが云々という風に世間が動くほどでもないと思っている。諸兄が存じている通り、マスコミの影響力は往時程ではないのだ。

だがそういった情報を流す側には当然そうした印象操作、偏向報道の気概があるのは考えられる。犯罪者というものに異常者のレッテルを貼りたがる、つまりは普通ではないという印象を与え、ネタにしたがるのが連中だ。平々凡々では台本の書きようがないというものだ。マスコミとはつまり、情報源ではなく話のネタの提供者なのだから。

何かと横領事件などでも順風満帆のエリートが何故、と報道するのも異常性でキャッチーにしたいというものだ。ただ一般的ではない趣味とは違い、およそ目指すべき道を歩んでる人に対してはその道がおかしいのではなく、正しい道を踏み外したという表現になるのだが。ちょうど伊藤忠商事のエリートが6億円もの着服で7月6日に逮捕されているが、彼の場合もFX取引を異常とすることでネタにしている。もっともFXにしろアニメにしろもはや普通の範疇で多くの人が興じていることなのだが、この辺はようやくネットを利用したと思ったらまだネットを面白芸人のネタ帳程度にしか考えられない時代遅れのメディアなので仕方がない。彼らの頭の中はまだバブル時代の中にある。

戻って、私が問題視したいのはオタク叩きの面ではなくそもそも容疑者報道のあり方である。犯罪者に人権はない、という心情は凶悪な殺人犯にまで持つなというのは無理があるが、罪を憎んで人を憎まずという言葉を知らないのかというのが現状である。

はっきり言って事件の犯人がどういう人物だったかという情報が必要なのは情状酌量でおなじみの裁判官であり、最近なら裁判員であり、検察、弁護士といった法律に則って裁くことに関係する人達であり、あとは被害者加害者の親族など親しい関係者ぐらいだろう。倉敷の犯人が卒業時に語った将来の夢だのを札幌の他人が知ってどうするというのか。

本来こうした事件報道で必要なのは、誘拐事件ならば被害者が保護されたことと容疑者の逮捕ぐらいだろう。事件があった、それは今日解決した。それだけの話だ。犯人の素顔だのは必要ないし、事件の手口は予防に必要な部分はともかく、例えば包丁で数箇所を刺されただのは必要ない。鑑識じゃないのだ我々は。

その意味で我々は常に印象操作を見せられてると言える。いや、そうだと自覚していかなければならない。だが実際問題、こういう事件が視聴率へと繋がるのだから仕方がないのだが。

視聴率だけの問題ではない、そもそもの警察発表の段階からして印象操作は行われている。警察は犯人を捕まえれば検察に送る、そこまでが仕事だが、検察と警察の癒着関係は言うまでもない。検察としては裁判で当然(自分達にとって)良い成果を得たいと考えてる。なれば事件が大事となって世間の関心を呼び、異常性が示されれば世間からは重罪にせよ酌量の余地なし刑務所から出すなの声が高まるわけだ。本来はそんなことに裁判員が左右されてはならないと思いたいが、実際には社会的な影響を云々という便利な言葉があるのでそれである程度左右できる。というか裁判員自体、検察と癒着してると言えるのは周知の通りだが、つまり罪ありきで動いている裁判官の多さには辟易とする。痴漢冤罪で検索するとよく引っかかる裁判官など、よくぞ法の精神をそこまで踏みにじれるものだと恐れ入るばかりだ。

話を戻して、この国にはこの通り裁判制度はあれど裁判で無罪かどうかも確定していない容疑者(正確には被疑者だが)の段階で、これでもかとあげつらい晒し者にしショーにする姿勢がある。他国にないとは言わない。むしろ欧米の方がひどく脚色するなどよくある話だ。だが日本では犯罪者の更生がよく語られるわりには一度でも罪を犯せばその罪を懲役などであがなっても犯罪者とされる社会なのは、平和が当たり前犯罪しないのが当たり前であることを示す一方、近代的な法の精神がまったく理解されていない上辺だけのものであることも示す。民主主義のあり方にせよ、そうした戦後に平和憲法とやらと共にもたらされた西欧的な精神はこの国には根付いていない。そのくせ北欧の最新の~みたいなことを語るのだから始末に終えない。

 

我々に必要なのは、正しく脚色されず必要分だけの情報であり、それ以外は本当に人道主義や無差別主義の社会を創りあげたいのならば不要である。今回の倉敷の事件については、犯人の素顔とやらを取り上げることがそもそも普通の人間は罪を犯さないという間違った感覚を助長させ、犯人は皆普通ではないと差別を助長することになる。薬だの酒だの病気だのは要因として確かにある。だがその人自身の人生を罪の原因とするなどという甘えを許してはならない。あくまで罪を生み出すのは人間そのものなのだから。

 

そうそう、今回の事件は行方不明というのが当初の話であった。そこから誘拐、そして今言われているのは監禁である。それを報道では得意気に許されないだと怖いだのと報じているようだ。

日本では年間およそ8万人が行方不明になってるという。家出などは考えないにしても、犯罪関係と推測されるだけで600人前後は行方不明になってるそうだ。不詳とされるものでは12000人前後にもなる。

あくまで犯罪関係にしても一日に2人ほどは行方不明になってると考えると、一つの誘拐事件でここまで騒ぎ立てるほど関心を寄せているマスコミは誘拐専門ニュース番組を作るべきではないだろうか?そこで毎日のように行方不明者がどこでいなくなったのか、特徴となるべきものはなにか。一日も早い事件解決のために全力を上げて報道すべきだろう。

 

無理な話だ。彼らは人を憎んで罪を憎まず。

そもそも思い出してみて欲しい。今回の倉敷の誘拐事件にしても発生、そして保護までの間にどれだけ彼らは報道してきただろうか?事件がありました、事件が解決しました。その間は?彼らは我々に誘拐された被害者を渋谷のスクランブルの中でも見つけられるほどの印象を与えられただろうか?

出来るわけがない。彼らにできるのは事件解決への協力という一般人ができることですらなく、ただワイドショーのネタのために時にはでっち上げてでも情報を歪めることなのだから。素知らぬ顔で事件を語る彼ら、彼らこそ唾棄し卑下されるべき異常な人間とやらである。

集団的自衛権のあれそれ

猫も杓子もといった具合に集団的自衛権の話題である。

確かに日本としては重大な事柄ではあるが、毎度の通りなにか一つの話題があると皆一様に同じ事しか報道できないメディアの愚直さに呆れるのがまず第一だ。部数が稼げ視聴率が稼げという利益追求の姿勢はまだ仕方がない、彼らとて(公明正大なジャーナリズムと騙っているが)商社と変わらない。売れるものを売らなければ破産するのだから。だが議論を深くするでもなく、各社で担当記者や社の意向を受けた言論を如何に世論にすり替えられるかに終始し、記者クラブで得られた内容を三日も四日も繰り返し、十把一絡げの市民の声とやらを暗唱させるつもりか連日流している。そこに新鮮な報道などはなく、言うなれば昨日も一昨日も同じ数式を学ばされているようなものだ。どうせ同じなのだから一度作ったニュースを延々再放送していても良いのではないだろうか。

 

せめてここだけは建設的に行こう。

集団的自衛権の是非そのものは各所で右も左も解説してくれているだろうから置いておいて、集団的自衛権をでは実際に賛否それぞれで論じてみようと思う。

集団的自衛権の議論は極論すれば、それが戦争になるか否かの問題だ。そこでまずは戦争になるという考えから語ってみよう。

 

集団的自衛権を採択する。この場合、戦争になる道は幾つか言われている。

・最もメジャーなのはアメリカの戦争に付き合わされ巻き込まれる場合。

・次にこれをとっかかりに軍国主義化し侵略戦争をする場合。

主にこの二つだろう。

前者は想像しやすい。集団的自衛権が問題なく行使できるようになれば、アメリカがまた911のような事態になった時に、同盟国として戦地に赴くということである。法的な根拠は日米安保第五条の共通の危機への対処だが、日本国の施政の下にある領域におけるいずれか一方に対する武力攻撃に対してのもので、米国本土は一応含まれていない。もっとも日米安保は有力な根拠であるというだけで、サマーワにおける後方支援のような形での参戦を拡大して前線に、という可能性はある。

だが現在の集団的自衛権の議論では、日本国や日本国民に対しての危険に関しての発動という方向で進んでいる。きちんと運用されていれば無闇な自衛権適用とはならないのだが、米国の圧力が云々と言ってしまえばおしまいでもある。

もっとも米国の圧力を語るならば、集団的自衛権の行使が許されていないとされていたイラク戦争時に、すでに後方支援という形で出張っている。直接敵を倒すばかりが戦争ではない、こうした細々とした支援もまた重要で、実際敵方から見れば銃を持っていようが薬を持っていようが敵なのである。ただし後方支援とされるような場所は当然、最前線よりはいくらか安全であるのだが。

第一に戦争もまた政治であることをどうにも理解していない。湾岸戦争で金だけ出しても無駄だという事実一つで、実際に行動することの大切さはわかる。そもそも逆に言えば多国籍軍国連軍で血を流している国は戦争大好き野郎だとレッテル貼りをしていることに気づかないのだろうか。気づかないのだろう。

この手合のは、日本は平和主義だから信頼されてるという。具体的にその信頼とやらはどこからも得られていないのではないだろうか。一度でも銃をつきつけたら信頼は得られない、そんなことはない。現に第二次世界大戦で戦った日米がそうであるし、イギリスもフランスもそうである。そうでないのは日本を敵とすることでまとまっている隣国ぐらいである。

参戦することの意味は置き、では実際アメリカの戦争に追従しなければならないのか?

条件付きでイエスである。

まず言えることは、集団的自衛権を拒否したところで後方支援など何らかの形でアメリカの戦争には関わることになるということだ。これは集団的自衛権を採択して酷くなるかといえばそうではない。

自衛隊には海外で戦争できるような余力はない。最前線で戦える経験もなければ、装備も予算も無いのだ。これから準備されるというかもしれないが、増大する福祉予算と緊縮財務省の壁を防衛予算が超えられる可能性は極めて低い。少なくとも財務省は説得できたとして、今ですら大多数を占める高齢有権者社会福祉を蹴れば確実に選挙で落ちるだろう。そんな危ない橋を極右政治家とやらの為に大多数の政治家が渡るわけはない。

同様の理由で次の軍国主義化も無理な話だ。大体、軍国主義化とはなにを示すのだろうか。大日本帝国のイメージだろうが、軍人が大臣の席にあったという以外は議会制民主主義の範疇である。治安維持法特高徴兵制大政翼賛会などなど挙げられるだろうが、治安維持法共産主義者の拘束を目的にしており国民の思想や反政府活動まで広げるとなると、そもそも結社の自由や思想の自由といった現憲法に反するので立法できない。憲法改正にこれだけ難儀している中、それら自由権憲法から消せるのだろうか?

特高についても同様だ。拷問などは憲法で禁止されており、またその役割についても公安が現に存在する。公安が今まであったのに今更恐怖する理由はないし、もし公安の権限拡大をするにしても警察内部での権力争いを制する必要がある。

徴兵制は割愛するが、徴兵制には結構な予算が必要なこと、今の兵隊の動きは最低でも数年の訓練が必要になること、そして財務省福祉予算。これらでわかるだろう。

大政翼賛会。これは政党ではなく結社であり、院内会派といった枠組みすら超えた議員参加の政治支援団体といえばわかりやすいだろう。後進が空襲対策、食糧増産といったいわゆる銃後の守りを担った国民義勇隊という組織であることからも、単なる政治団体ではない国体に関わるものだというのがわかる。目的は議会を円滑に進めるための単独政党政治を目指してのものだったが、実際にはより大きな組織となった。当時は主要政党が自発的に解散しての参加だったことからも、政党政治とはかけ離れた存在である。もうお分かりだろう。こんな政党が解散するような組織が誕生する時があれば、そんなのはとっくに軍国主義になっている時である。だいたい多くの政治家がこれに参加したのは、つまり選挙に勝てるからだ。国民から圧倒的に支持されていたからだ。極右政治家の暴走の産物とは言い難い。

以上の点を踏まえれば、日本の軍国主義化が荒唐無稽であるのは理解できるだろう。第一に、お隣にずばり大政翼賛会の目指した一政党による独裁と、政治と軍事が密接に繋がり、また思想統制や徴兵制もやっている国があるのだが、そちらは軍国主義ではないのだろうか?

 

まとめると、集団的自衛権を否定してもアメリカの戦争には巻き込まれる(巻き込まれてる)が、様々なハードルから先陣を切るような真似は極めて難しい。そして集団的自衛権を肯定しても、同様にハードルが高すぎて軍国主義化は困難である。

 

では逆に集団的自衛権を肯定する側で見てみよう。

集団的自衛権がないと他国の船に乗った日本人を守れない。

・アメリカに向かう弾道ミサイルを迎撃したり、海外派遣時の駆けつけ警護のような人道的な防衛もできない。

前者は日本国憲法にもあるように、国民の生命を守るためで可能に思える。だがこの場合、船という器を見るか中の人を見るかで解釈が分かれる。前者なら他国を守ったということで個別的自衛権とは言い難く、後者ならば緊急避難や在外邦人の輸送で適用できそうだが、それを実施するには自衛隊の管理下に置かれなければならないので民間客船はともかく米軍輸送艦のような他国の管理下に置かれているものに対して適用できるか微妙である。また日本国内でもし米軍に輸送されている民間人という場合は、国民保護法関連を軽く見たがどうにも緊急避難にかかりそうな武器使用の基準が見当たらない。

後者は当然、どう解釈しても集団的自衛権になる。個別的自衛権ではこれを防ぐことは出来ない。駆けつけ警護は現在の自衛隊では認められておらず、民間外国人が虐殺されようと外国のPKO部隊が攻撃されようと援護もできない。場合によっては戦闘地域として撤収しなければならない。

つまり前者についてはまだ個別的自衛権の解釈で可能だが、後者は無理となる。逆に言えば集団的自衛権とは、他国を守るためには必須ということだ(当たり前だが)

 

では後者を拡大解釈していけば911のような時にアメリカと共に戦地に赴くか?

これはもう前述している通りである。集団的自衛権があろうがなかろうが同じだし、前線に立つようなことは様々な条件から極めて難しいと。

ただ当然だが地道な効果はある。ミサイル防衛に関係してアメリカ行きの弾道ミサイルを迎撃することも可能だし、PKO活動中に近くの民間人が襲撃されているのを人道的見地から助けたり、同じく活動している他国が襲撃されたら援護程度はできる。むしろこれらをやらないということは、アメリカ市民が何人死んでも良いし、目の前の民間人が殺されるのを見届けるだけで、同じく活動していた他国の軍人に無駄な血を流させるということだ。当然、これらをやらなければ自衛隊員が死ぬリスクは抑えられるだろう。だがその先にそれらの国が日本をどう見るか、どう対応するかを考えれば、つまりは日本人にどんな被害が来ても他国を救うなということになる。平和主義での信頼とやらが憎悪にしかならないのだ。

 

これらを考えていけばわかる通り、集団的自衛権を行使可能にするということは、日本と他国との関係を悪化させないためのものである。行使できないまま自国のみに専念しても誰も尊敬してくれないし、それはつまり国連軍のような活動についても同様に不参加か、文官の派遣に留めるということだ。それで良いじゃないかと思うが、現実には日本は国力で世界の十指に入る大国である。その大国が平和主義を盾に他国にばかり苦労させることが決して尊敬されないことは、繰り返すが湾岸戦争での扱いで示されている通りである。大体協調性を死ぬほど重んじる社会を形成しておいて、いざ国際の舞台では協調しないとは蔑まれるものでしかない。

 

だがここまで書いておいて集団的自衛権に私は賛成かといえば、難しい。

それ自体は構わない。軍国主義化などという妄想もない。だが、今論じられている限りの集団的自衛権の運用では、片手落ちなのだ。集団的自衛権の行使のステップ1だと思えば納得しないこともないが、それにしても集団的自衛権の要である上述した他国を守るという部分を徹底的に封じているのが頂けない。

我が国の存立が脅かされ、国民の権利が覆される明白な危険がある場合にのみ認められるなど、限定的すぎて国際貢献や海外派遣をまったく見据えていない。ここを踏み台に解釈でPKO派遣の武器使用基準を緩和するなどならわかるが、この分では流れを作ったに留まりそうだ。政治的妥結ではあるが、本質を欠いた今の状況は稚拙にすぎる。なにが稚拙か? こんなこともわからず、ただ軍国主義の幻に囚われる平和ボケの政治家が、だ。

 

戦争をしないに越したことはない。だが思考停止でラブ&ピースを語る愚かな輩の所為で死んでいく外国人、そしてその余波で損害を被る日本人が哀れだ。

平和主義を掲げながらそれに従わない人を攻撃する彼らが、彼らの所為で守れなかった人々から糾弾された時に果たして目が覚めるのだろうか? 極右と認定して殴りかかってくる姿が容易に想像できる。

 

暇を愛する老人の行く先は公営高齢者休憩所か

ジャーナリストの池上彰氏を代表とする特番は数多くあるが、4月9日の消費税増税を主題とした特番でゲストの発言が炎上したらしく問題となっていた、らしい。

発端は高齢者医療費の増大に関連して俳優の小澤雅貴氏が、病気でもなく井戸端会議の為に医院に集う高齢者が問題とし、同じく俳優のイアン・ムーア氏が構わないじゃないかと擁護した所で、マルチタレントの小柳歩氏が見ず知らずの高齢者の井戸端会議の為に税金を払うのは嫌だと発言した流れで、この小柳氏に敬老の精神やら性格悪いやらと批判が殺到したというものだ。

そもそも討論番組と銘打っている所に毎度毎度専門家でもない芸能人が論客としてあるのは、その世代を代表したり或いは高額納税者、芸能活動の立場から物申すというならわかるが、素人並の考えか台本通りのボケとツッコミの為にあるのは番組制作者を疑うものだ。さておきグラビアアイドルという仕事をする身でその場に出てきても、角が立たない程度に愛想を振りまくか常識的な所で頷くかしているのが本来無難なのだろう。しかしこのように角の立つ発言をしたことは、裏側に炎上商法があるかもしれないが、それでも若い世代の気持ちを代弁していると言えるものではないかと思った。

彼女だけが別に敬老の精神がなってないわけではないし、発言を見ていけばわかるが、高齢者をないがしろにしているわけではない。そもそも発端は小澤雅貴氏なのにどうして彼女だけが炎上するのかと考えるとますます炎上商法臭いのだが。

紐解けばわかるが、これに批判するということは「高齢者の井戸端会議の為に税金を払うのが敬老の精神である」と言うものである。確かにおじいちゃんおばあちゃんと言われる世代が今日の日本を作り出した、その功績は大きい。だが良い事をしたからといってそれを建前に老後は何をしても良い、ということにはならない。むしろ偉業をなしたという自負があるのならば、相応の振る舞いを貫き通すべきではないだろうか?

会社で例えれば分かるだろう。日本という名の貧乏会社を立て直した人がいる。彼の功績は素晴らしいものだし、引退後も相応に会社から企業年金などを貰ったりしても、目くじらを立てるものはそうはいない。だが会社は再び不景気となり業績が悪化している。その最中でも功績ある元社員の立場を盾に、例えば会社の経費で飲み食いしたり、会社の厚生費で病気でもないのに病院に行っていたりする。立て直したと自負するならば、存続の危機にある会社のことを考えてお得意の「今の若者に足りない謙虚さ」を発揮すべきではないだろうか。大体、世代を考えれば公的年金も会社からの退職金も貯金も老後を過ごすには十分なだけ貰っている人が多いはずで、そうでない人は今の若者に説教しているように「仕事があるのに選り好みをして仕事をしなかった、貧乏は自己責任」と言えるだろう。無論、事故や病気などの事情は考慮されることは、「自分は物事をよくわかってるから人に口出しして良い」と思っている賢い皆様ならば言うまでもなく理解してくれていることだろう。

そうした部分を抜きにして考えても、この「井戸端会議の為に税金を払うのは嫌だ」というのがごく少数の意見だと思うのは都合が良すぎる考えだろう。このように思っている若い世代は、いや若い世代に限らずだが多くいるとみなすべきだ。税金の無駄遣いに罵声を浴びせる人々はもちろんのこと、今の二十代三十代の収入を考えれば社会保険という名前の大きな負担をして、自分たちより裕福な御老体の駄弁り場を提供したくはないだろう。

 

ここで視点を変えてみる。一般に公民館や地域の集いなどといった老人の集まる場所というのは将棋からゲートボールから数多くある。町内会費やおやつ代で済むような物もたくさんあり、またこのように集う老人世代が主な情報源とする新聞や地域冊子で知ることも容易で、病院に行くよりはむしろ行きやすいと言える。ではなぜ老人は病院で井戸端会議をするのだろうか、或いはそのイメージがあるのだろうか?

まず病院の安心感がある。持病持ちにしろそうでないにしろ、高齢者にとって怖いのは軽かろうと病気である。風邪から肺炎などよく聞く話で、体力の衰えを実感している彼らにはちょっとしたことでも=死のイメージが強い。その為にちょっとしたことでも病院に行くし、高齢者ともなれば毎日どこかが痛くもなる。病院ではないが整骨院の類には平日だろうと高齢者が集ってるのは、そういうことだ。医者の先生がすぐそこにいるという安心感は心強い。

次に安価な医療費と親身な医者の先生がある。負担が少しあるとはいえ高齢者の医療費は、それもちょっと喉の様子を見てもらったりする程度ならば大したことはない。町中のクリニック程度であれば大病院のような喧騒さもなく、当然清潔なのだから居心地も良い。

親身な先生というのは非常に良いことだが、それは話をよく聞いてくれる人ということである。しかもビジネスである以上、多少の厳しさがあったとしてもそれは(多くは)身を思っての事であり優しさや真心といった言葉で表せられる。最近の表現で言えばおもてなしだ。仲間内ではないある種の親切な第三者というのは、話を聞かせるのにはうってつけである。プライバシーを守りつつ、自身の社会的評価を気にすること無く、つまるところ愚痴を言えるのだ。

生命の安心感、財布の安心感、精神の満足感、これらが得られてさらに比較的近い世代や価値観(病気持ちという意味でも)の仲間がいる場所と考えれば、これは集わないほうが無理だと言える。

 

医者としては健康診断扱いだろうが来てもらったほうが儲けになるので、待合室を占拠するレベルにまで至らなければ大きな問題とはしないだろう。

それに社会保険を考えれば使ったほうが得とも言える。なんでもかんでも元を取れるかの精神が働く人はなにも老人に限ったことではなく、ちょっとした食べ放題に行けば誰もが「何百円は得した」などと思っているありふれた考え方だ。

行き過ぎた敬老の精神もこれを後押しする。先述したように高齢者にはやはりそれなりに敬いの気持ちを持つことが色々な意味で大事である。そういう気持ちを持つ心が大切とも、将来の自分を考えて、でも良い。だが敬いとはつまり敬意を払うことであり、当然敬意を受ける側も漫然と老人の立場を利用するのでは救いがない。社会的弱者の杖を振り回して脅して言うことを聞かせるのは脅迫であって敬意ではないし、考えればわかるが多くの場合、相手を敬って優しくするのではなく、「老人だから疲れやすく大変だろう」などの思いやりの心から優しくするのだ。そこを勘違いして「わしは偉いから相手は下に出る」などと思い上がる、或いは「老人は無条件に偉い」と考えるから、こういう炎上劇が発生すると言えるだろう。

よく主張にある「今の日本を作った偉い世代」と世代単位で一括りにするのも良くない。本来は個人で評価すべきで、そこを許してしまうと「バブル崩壊を引き起こした悪の世代」と言っても問題ないことになってしまう。もっともそのバブル世代は悪びれもなく「使えないゆとり世代」を言ってのけるのだから呆れるのだが。

 

ともあれ現実として、医院に集いやすい環境がある。これをどうやっていき、引いては福祉予算の無駄などと言われないようにするか、だ。

簡単である。医者がいてカウンセラーがいて清潔な場所を作れば良いのだ。

地域のゲートボールの会といったものの方が健全だとも思うが、単に「お話しましょう会」でも喋らなくてはならないという拘束が発生する。そういうのを一切なく、ただ家じゃない場所で喋るなり新聞を読むなりテレビを見るなりできる場所が必要なのだ。

孤独老人ばかりが集うわけではないだろうと思う。多くは家に居場所が無かったり、夫婦で片方と生活パターンが合わなかったりと、孤独老人問題を解決すれば解消するものではないだろう。

スーパー銭湯にも似たようなものだが、そういう「老人がごろごろ出来る場」が公的に安価に必要だと思われる。それも大きな街に一つではなく、公民館のような数で、だ。

しかし逆に税金を使うのではないか? その点についてはその通り、税金は民間のクリニックをそのまま使う(便宜上使うと言う)より高くつくことになるだろう。だが高齢化社会が進むに連れて、いずれはこうした高齢者専門の安価な休憩所が必要になっていくことだろう。無論、ホームレス対策などをしなければならないが、そこは健康保険加入者のみなどとすれば大抵解決するはずだ。

こうした公営高齢者休憩所と呼べる物の運営については、後期高齢者医療制度の枠組みを利用した上で高齢者自身が支払う分の健康保険料や介護保険料から捻出していく。これにより若年層からの無駄遣いという部分はある程度減るだろう。もっとも当の高齢者から批判は出るだろうが、果たして「公民館のセミナーを利用すれば良い」となるか、「高齢者に負担させるとは不敬である」となるか。世相を見るに後者の声が大きそうだが。