左右若老場

政治・思想・経済等への雑感を吐いていくこの上なく面倒で不要な場とその主

暇を愛する老人の行く先は公営高齢者休憩所か

ジャーナリストの池上彰氏を代表とする特番は数多くあるが、4月9日の消費税増税を主題とした特番でゲストの発言が炎上したらしく問題となっていた、らしい。

発端は高齢者医療費の増大に関連して俳優の小澤雅貴氏が、病気でもなく井戸端会議の為に医院に集う高齢者が問題とし、同じく俳優のイアン・ムーア氏が構わないじゃないかと擁護した所で、マルチタレントの小柳歩氏が見ず知らずの高齢者の井戸端会議の為に税金を払うのは嫌だと発言した流れで、この小柳氏に敬老の精神やら性格悪いやらと批判が殺到したというものだ。

そもそも討論番組と銘打っている所に毎度毎度専門家でもない芸能人が論客としてあるのは、その世代を代表したり或いは高額納税者、芸能活動の立場から物申すというならわかるが、素人並の考えか台本通りのボケとツッコミの為にあるのは番組制作者を疑うものだ。さておきグラビアアイドルという仕事をする身でその場に出てきても、角が立たない程度に愛想を振りまくか常識的な所で頷くかしているのが本来無難なのだろう。しかしこのように角の立つ発言をしたことは、裏側に炎上商法があるかもしれないが、それでも若い世代の気持ちを代弁していると言えるものではないかと思った。

彼女だけが別に敬老の精神がなってないわけではないし、発言を見ていけばわかるが、高齢者をないがしろにしているわけではない。そもそも発端は小澤雅貴氏なのにどうして彼女だけが炎上するのかと考えるとますます炎上商法臭いのだが。

紐解けばわかるが、これに批判するということは「高齢者の井戸端会議の為に税金を払うのが敬老の精神である」と言うものである。確かにおじいちゃんおばあちゃんと言われる世代が今日の日本を作り出した、その功績は大きい。だが良い事をしたからといってそれを建前に老後は何をしても良い、ということにはならない。むしろ偉業をなしたという自負があるのならば、相応の振る舞いを貫き通すべきではないだろうか?

会社で例えれば分かるだろう。日本という名の貧乏会社を立て直した人がいる。彼の功績は素晴らしいものだし、引退後も相応に会社から企業年金などを貰ったりしても、目くじらを立てるものはそうはいない。だが会社は再び不景気となり業績が悪化している。その最中でも功績ある元社員の立場を盾に、例えば会社の経費で飲み食いしたり、会社の厚生費で病気でもないのに病院に行っていたりする。立て直したと自負するならば、存続の危機にある会社のことを考えてお得意の「今の若者に足りない謙虚さ」を発揮すべきではないだろうか。大体、世代を考えれば公的年金も会社からの退職金も貯金も老後を過ごすには十分なだけ貰っている人が多いはずで、そうでない人は今の若者に説教しているように「仕事があるのに選り好みをして仕事をしなかった、貧乏は自己責任」と言えるだろう。無論、事故や病気などの事情は考慮されることは、「自分は物事をよくわかってるから人に口出しして良い」と思っている賢い皆様ならば言うまでもなく理解してくれていることだろう。

そうした部分を抜きにして考えても、この「井戸端会議の為に税金を払うのは嫌だ」というのがごく少数の意見だと思うのは都合が良すぎる考えだろう。このように思っている若い世代は、いや若い世代に限らずだが多くいるとみなすべきだ。税金の無駄遣いに罵声を浴びせる人々はもちろんのこと、今の二十代三十代の収入を考えれば社会保険という名前の大きな負担をして、自分たちより裕福な御老体の駄弁り場を提供したくはないだろう。

 

ここで視点を変えてみる。一般に公民館や地域の集いなどといった老人の集まる場所というのは将棋からゲートボールから数多くある。町内会費やおやつ代で済むような物もたくさんあり、またこのように集う老人世代が主な情報源とする新聞や地域冊子で知ることも容易で、病院に行くよりはむしろ行きやすいと言える。ではなぜ老人は病院で井戸端会議をするのだろうか、或いはそのイメージがあるのだろうか?

まず病院の安心感がある。持病持ちにしろそうでないにしろ、高齢者にとって怖いのは軽かろうと病気である。風邪から肺炎などよく聞く話で、体力の衰えを実感している彼らにはちょっとしたことでも=死のイメージが強い。その為にちょっとしたことでも病院に行くし、高齢者ともなれば毎日どこかが痛くもなる。病院ではないが整骨院の類には平日だろうと高齢者が集ってるのは、そういうことだ。医者の先生がすぐそこにいるという安心感は心強い。

次に安価な医療費と親身な医者の先生がある。負担が少しあるとはいえ高齢者の医療費は、それもちょっと喉の様子を見てもらったりする程度ならば大したことはない。町中のクリニック程度であれば大病院のような喧騒さもなく、当然清潔なのだから居心地も良い。

親身な先生というのは非常に良いことだが、それは話をよく聞いてくれる人ということである。しかもビジネスである以上、多少の厳しさがあったとしてもそれは(多くは)身を思っての事であり優しさや真心といった言葉で表せられる。最近の表現で言えばおもてなしだ。仲間内ではないある種の親切な第三者というのは、話を聞かせるのにはうってつけである。プライバシーを守りつつ、自身の社会的評価を気にすること無く、つまるところ愚痴を言えるのだ。

生命の安心感、財布の安心感、精神の満足感、これらが得られてさらに比較的近い世代や価値観(病気持ちという意味でも)の仲間がいる場所と考えれば、これは集わないほうが無理だと言える。

 

医者としては健康診断扱いだろうが来てもらったほうが儲けになるので、待合室を占拠するレベルにまで至らなければ大きな問題とはしないだろう。

それに社会保険を考えれば使ったほうが得とも言える。なんでもかんでも元を取れるかの精神が働く人はなにも老人に限ったことではなく、ちょっとした食べ放題に行けば誰もが「何百円は得した」などと思っているありふれた考え方だ。

行き過ぎた敬老の精神もこれを後押しする。先述したように高齢者にはやはりそれなりに敬いの気持ちを持つことが色々な意味で大事である。そういう気持ちを持つ心が大切とも、将来の自分を考えて、でも良い。だが敬いとはつまり敬意を払うことであり、当然敬意を受ける側も漫然と老人の立場を利用するのでは救いがない。社会的弱者の杖を振り回して脅して言うことを聞かせるのは脅迫であって敬意ではないし、考えればわかるが多くの場合、相手を敬って優しくするのではなく、「老人だから疲れやすく大変だろう」などの思いやりの心から優しくするのだ。そこを勘違いして「わしは偉いから相手は下に出る」などと思い上がる、或いは「老人は無条件に偉い」と考えるから、こういう炎上劇が発生すると言えるだろう。

よく主張にある「今の日本を作った偉い世代」と世代単位で一括りにするのも良くない。本来は個人で評価すべきで、そこを許してしまうと「バブル崩壊を引き起こした悪の世代」と言っても問題ないことになってしまう。もっともそのバブル世代は悪びれもなく「使えないゆとり世代」を言ってのけるのだから呆れるのだが。

 

ともあれ現実として、医院に集いやすい環境がある。これをどうやっていき、引いては福祉予算の無駄などと言われないようにするか、だ。

簡単である。医者がいてカウンセラーがいて清潔な場所を作れば良いのだ。

地域のゲートボールの会といったものの方が健全だとも思うが、単に「お話しましょう会」でも喋らなくてはならないという拘束が発生する。そういうのを一切なく、ただ家じゃない場所で喋るなり新聞を読むなりテレビを見るなりできる場所が必要なのだ。

孤独老人ばかりが集うわけではないだろうと思う。多くは家に居場所が無かったり、夫婦で片方と生活パターンが合わなかったりと、孤独老人問題を解決すれば解消するものではないだろう。

スーパー銭湯にも似たようなものだが、そういう「老人がごろごろ出来る場」が公的に安価に必要だと思われる。それも大きな街に一つではなく、公民館のような数で、だ。

しかし逆に税金を使うのではないか? その点についてはその通り、税金は民間のクリニックをそのまま使う(便宜上使うと言う)より高くつくことになるだろう。だが高齢化社会が進むに連れて、いずれはこうした高齢者専門の安価な休憩所が必要になっていくことだろう。無論、ホームレス対策などをしなければならないが、そこは健康保険加入者のみなどとすれば大抵解決するはずだ。

こうした公営高齢者休憩所と呼べる物の運営については、後期高齢者医療制度の枠組みを利用した上で高齢者自身が支払う分の健康保険料や介護保険料から捻出していく。これにより若年層からの無駄遣いという部分はある程度減るだろう。もっとも当の高齢者から批判は出るだろうが、果たして「公民館のセミナーを利用すれば良い」となるか、「高齢者に負担させるとは不敬である」となるか。世相を見るに後者の声が大きそうだが。