左右若老場

政治・思想・経済等への雑感を吐いていくこの上なく面倒で不要な場とその主

犯人の素顔の暴露とは

7月14日の下校途中に行方不明となった女児が19日に保護された事件である。

これ自体はままある児童誘拐事件であるのだが、容疑者がイラストレーターだったり部屋にアニメのポスターが飾ってあったりとした部分が報道されたことで、オタク差別なのではないかと騒がれている。無論、世間的には日常の中に埋もれているのだが連日報道されていることもあって記憶から消えるという程ではない。

率直に言ってオタク叩きだと騒ぐのは過剰反応ではないかと私は思っている。問題がないとは決して言わない。だがこれでもってオタクが云々という風に世間が動くほどでもないと思っている。諸兄が存じている通り、マスコミの影響力は往時程ではないのだ。

だがそういった情報を流す側には当然そうした印象操作、偏向報道の気概があるのは考えられる。犯罪者というものに異常者のレッテルを貼りたがる、つまりは普通ではないという印象を与え、ネタにしたがるのが連中だ。平々凡々では台本の書きようがないというものだ。マスコミとはつまり、情報源ではなく話のネタの提供者なのだから。

何かと横領事件などでも順風満帆のエリートが何故、と報道するのも異常性でキャッチーにしたいというものだ。ただ一般的ではない趣味とは違い、およそ目指すべき道を歩んでる人に対してはその道がおかしいのではなく、正しい道を踏み外したという表現になるのだが。ちょうど伊藤忠商事のエリートが6億円もの着服で7月6日に逮捕されているが、彼の場合もFX取引を異常とすることでネタにしている。もっともFXにしろアニメにしろもはや普通の範疇で多くの人が興じていることなのだが、この辺はようやくネットを利用したと思ったらまだネットを面白芸人のネタ帳程度にしか考えられない時代遅れのメディアなので仕方がない。彼らの頭の中はまだバブル時代の中にある。

戻って、私が問題視したいのはオタク叩きの面ではなくそもそも容疑者報道のあり方である。犯罪者に人権はない、という心情は凶悪な殺人犯にまで持つなというのは無理があるが、罪を憎んで人を憎まずという言葉を知らないのかというのが現状である。

はっきり言って事件の犯人がどういう人物だったかという情報が必要なのは情状酌量でおなじみの裁判官であり、最近なら裁判員であり、検察、弁護士といった法律に則って裁くことに関係する人達であり、あとは被害者加害者の親族など親しい関係者ぐらいだろう。倉敷の犯人が卒業時に語った将来の夢だのを札幌の他人が知ってどうするというのか。

本来こうした事件報道で必要なのは、誘拐事件ならば被害者が保護されたことと容疑者の逮捕ぐらいだろう。事件があった、それは今日解決した。それだけの話だ。犯人の素顔だのは必要ないし、事件の手口は予防に必要な部分はともかく、例えば包丁で数箇所を刺されただのは必要ない。鑑識じゃないのだ我々は。

その意味で我々は常に印象操作を見せられてると言える。いや、そうだと自覚していかなければならない。だが実際問題、こういう事件が視聴率へと繋がるのだから仕方がないのだが。

視聴率だけの問題ではない、そもそもの警察発表の段階からして印象操作は行われている。警察は犯人を捕まえれば検察に送る、そこまでが仕事だが、検察と警察の癒着関係は言うまでもない。検察としては裁判で当然(自分達にとって)良い成果を得たいと考えてる。なれば事件が大事となって世間の関心を呼び、異常性が示されれば世間からは重罪にせよ酌量の余地なし刑務所から出すなの声が高まるわけだ。本来はそんなことに裁判員が左右されてはならないと思いたいが、実際には社会的な影響を云々という便利な言葉があるのでそれである程度左右できる。というか裁判員自体、検察と癒着してると言えるのは周知の通りだが、つまり罪ありきで動いている裁判官の多さには辟易とする。痴漢冤罪で検索するとよく引っかかる裁判官など、よくぞ法の精神をそこまで踏みにじれるものだと恐れ入るばかりだ。

話を戻して、この国にはこの通り裁判制度はあれど裁判で無罪かどうかも確定していない容疑者(正確には被疑者だが)の段階で、これでもかとあげつらい晒し者にしショーにする姿勢がある。他国にないとは言わない。むしろ欧米の方がひどく脚色するなどよくある話だ。だが日本では犯罪者の更生がよく語られるわりには一度でも罪を犯せばその罪を懲役などであがなっても犯罪者とされる社会なのは、平和が当たり前犯罪しないのが当たり前であることを示す一方、近代的な法の精神がまったく理解されていない上辺だけのものであることも示す。民主主義のあり方にせよ、そうした戦後に平和憲法とやらと共にもたらされた西欧的な精神はこの国には根付いていない。そのくせ北欧の最新の~みたいなことを語るのだから始末に終えない。

 

我々に必要なのは、正しく脚色されず必要分だけの情報であり、それ以外は本当に人道主義や無差別主義の社会を創りあげたいのならば不要である。今回の倉敷の事件については、犯人の素顔とやらを取り上げることがそもそも普通の人間は罪を犯さないという間違った感覚を助長させ、犯人は皆普通ではないと差別を助長することになる。薬だの酒だの病気だのは要因として確かにある。だがその人自身の人生を罪の原因とするなどという甘えを許してはならない。あくまで罪を生み出すのは人間そのものなのだから。

 

そうそう、今回の事件は行方不明というのが当初の話であった。そこから誘拐、そして今言われているのは監禁である。それを報道では得意気に許されないだと怖いだのと報じているようだ。

日本では年間およそ8万人が行方不明になってるという。家出などは考えないにしても、犯罪関係と推測されるだけで600人前後は行方不明になってるそうだ。不詳とされるものでは12000人前後にもなる。

あくまで犯罪関係にしても一日に2人ほどは行方不明になってると考えると、一つの誘拐事件でここまで騒ぎ立てるほど関心を寄せているマスコミは誘拐専門ニュース番組を作るべきではないだろうか?そこで毎日のように行方不明者がどこでいなくなったのか、特徴となるべきものはなにか。一日も早い事件解決のために全力を上げて報道すべきだろう。

 

無理な話だ。彼らは人を憎んで罪を憎まず。

そもそも思い出してみて欲しい。今回の倉敷の誘拐事件にしても発生、そして保護までの間にどれだけ彼らは報道してきただろうか?事件がありました、事件が解決しました。その間は?彼らは我々に誘拐された被害者を渋谷のスクランブルの中でも見つけられるほどの印象を与えられただろうか?

出来るわけがない。彼らにできるのは事件解決への協力という一般人ができることですらなく、ただワイドショーのネタのために時にはでっち上げてでも情報を歪めることなのだから。素知らぬ顔で事件を語る彼ら、彼らこそ唾棄し卑下されるべき異常な人間とやらである。