左右若老場

政治・思想・経済等への雑感を吐いていくこの上なく面倒で不要な場とその主

科学への理解と求心と

STAP細胞を巡っての論争は先の記者会見で再燃した。

だがそれはここ一ヶ月での捏造認定に始まる流れに楔を打ち込む形となったわけだが。

ノーベル賞もかくやといったSTAP細胞の最初の報道には恐らく多くの人々がその先にある、特に医療分野での大きな活躍と恩恵に期待していた所だろう。だが数日の内に怪しいとされ挙句に捏造認定と理研による報告でSTAP細胞の存在を信じる者は激減したと言って良い。

だが今回の小保方晴子氏の記者会見でこれまで一方的だった理研に反することで、理研側の優位性に揺らぎが出てきている。論文や実験の実証性が揺らぐのではない。世間からの評価が、小保方氏か理研かといった具合になっているのだ。

私が見る限りでは記者会見を受けた各報道はまだ懐疑的な方向で動いているようだが、しかし彼らが捏造が疑われた段階からしばらくの間、理研安倍政権での特定国立研究開発法人指名を取り上げ、いわゆる政治と金の問題として批判していたことは記憶に新しい。その記憶はまだ多くの人に残ってるはずであり、ここから今回の記者会見を受けて、理研による陰謀や癒着に対向する研究者という意識が芽生えてくる可能性は大きい。

現在、理研の最終報告では論文に多大な不備があったことで不正と判断しているもので、実はSTAP細胞そのものがインチキだとしているわけではない。だが化学に限らずだが論文が否定されるということは実質インチキ認定するものであり、少なくともこれだけの騒ぎを起こした小保方氏が今後理研に在籍できるとは思えない。STAP細胞の存在については今後も違う形で検証されていくだろう。そのことを踏まえて私は、この細胞そのものについてはむしろ存在を信じている派だ。初期に報道されたように比較的容易な方法で作成できるのなら、なお良い。

一方で小保方氏についてはどうか? 少なくとも記者会見で画像の取り違えや論文の記述不備などの誤りがあった点は認めており、一大学の研究員ならまだしも理化学研究所という日本を代表する研究機関の一員としては、やはりお粗末だとしか言いようがない。一方ですでに様々な所で言われているように記者会見における小保方氏の隙のない大衆への訴え方(テレビ映えする)は、誰かの入れ知恵でないのならば女優か政治家に転向するべきだろう、というものだった。先述したようにあれで動かされた人は少なくないはずだ。

理研についてはどうか? 組織を守るということを考えれば早々と小保方氏を切り捨てたことは当然と言える。特定国立研究開発法人の件も相まって、そこには政治的要素も動いたことは想像に難くない。だからといって理研を疑うわけではないが、私は少なくともこの理研には問題点があると思っている。

つまりは理研で研究する立場にありながらお粗末な論文を提出してしまえるという点で、理研所属研究者の程度や雇用体制に疑問が生じ、論文のチェック体勢もそうだが大事なはずの論文の精査もできない就業状態についても問題があるのではないかと思えてしまう。

一般に理系の研究者というものが労働基準法を遵守できる立場ではないことはよく聞く話だが、ゼミ生の立場ならともかく比較的恵まれた環境にあるはずの理研ですらそうであるのなら、これは科学研究体勢について抜本から改善しなければならないことを示す。

元より日本は技術大国を自称する一方で技術者に対する評価は芳しくなく、それは最先端の研究から町工場の職人芸に至るまでであろう。本来、もっと敬われ厚遇されるべき人々が低い労働水準や低賃金に嘖まれなければならないのは、大衆の技術への理解度が極めて低いためだけではない。根底の意識として優れたものは大衆に還元すべきだという、単純に言えば富の分配思想にあると私は考える。

金持ちが寄付することを公にすれば偽善と罵られるのは自慢や妬みだけでなく、もっと奥深い所では「やって当たり前」の行きすぎた謙虚さにあるのではないだろうか。そのことが技術にも言えて、研究という物に滅私奉公の精神が求められる。そこには研究者に対し優れた人間性を求めることがあり、逆に言えば優れていない者からの乞食根性とも言える。政治家には政治力よりも金銭への関わりの関心が高いことなども考えればわかるが、日本社会では上に立つあらゆる立場に対して聖人君子を求める傾向にある。つまりは何かに秀でて人々からの尊敬を受ける立場にある者は、尊敬する立場の人々が追いつけないような「あの人は人間からして違う」というような、才能を得ても当然という清廉さが求められる。神様のご褒美と言い換えても良い。これもまた逆に言えば、特に悪いことをしていない(と思い込んでいる)自分が何ら秀でないことが許せないという極めて自己中心的な考えに基づいている。

 

これら総称して「妬み」からなる「謙虚さの強要」をどう脱するかについては、私は少なくとも百年単位での意識改善計画が必要となると考える。ということはつまり、今の短絡的な考えに染まった社会・政治状況では不可能と言うことだ。

現実的に本来は可能なことを考えても、研究者・技術者への本来あるべき対価の支払いや労働環境の改善など、今の社会がとことん嫌っている「無駄な」出費がそれであり、まったく実現する気がしない。

 

昨今理系の重要性を語る人は多いが、その理系がなかなか増えないのは何故か? 未だ続くポスドクの雇用問題にしてもそうだし、人々の理系人に対するギーク的な考えもそうだ。後者については結局、前者の経済的問題を解決すればおよそ解決するだろう。今は根暗などと言う人々も、年収一千万などと言えば簡単に手の平を返す。嘆かわしいのはそういう手の平を返す人々が大衆であり世論とされることだが。

とにかく、すべては払うべき人に払え、ということだ。一体何時になったら「世の中を動かしている」と偉ぶる方々は、アイドルを起用してのイメージ改善だの知って貰おうアピールではなく、稼げる暮らせる生活できるが重要であることに目を向けるのだろうか。分厚い財布を自慢しながら他人の所為にできる、そんな連中の濁りきった目が向けられたとして映りはしないのだろうが。

参考・記者会見詳報

http://www.jiji.com/jc/v4?id=20140409obokata0001