左右若老場

政治・思想・経済等への雑感を吐いていくこの上なく面倒で不要な場とその主

差別と区別と偏見と

なんともつまらない見出しだが、そもそも差別などというものが根本的にくだらなくつまらないのだから仕方がない。しかし世の中にはありふれたもので、たどっていけば結局人間それ自体がくだらないのだと言うことになるが、もう少し踏み込んでみようと思う。

最近の日本では嫌韓デモに始まる在特会としばき隊がよく聞かれ、差別問題といえば右も左もこちらの方が口に出るだろう。両者ともに問題はあるが、現実に分が悪いのはしばき隊である。というのもしばき隊の行動が理念と一致していないというのが一番にある。

この所ネットを騒がせているのはしばき隊創設者にして代表者のオタクへの偏見と差別発言であるが、団体構成員が言っただけなら個人と逃れられるが代表者からしてすでに差別を許さないという姿勢からかけ離れている点で、その程度が知れる。差別主義者と黒人が嫌いだというジョークがあるが、まさにそれを体現しているだろう。

在特会は一方で一貫している。というのも簡単な話で、しばき隊の言うところのレイシストがそれに反するならば反レイシストな行動を取るものだがそれはまず無いからだろう。

両者は異質なようでベクトルは同じようなものである。大なり小なりの差はあるが、根本としては特定の存在(人に限らず)を排除しようという試みで動いているからだ。だからこそ、根源が排外主義者なのにそれを否定することを謳うことが極めて困難であることが分かるだろう。

無論、それが不可能というわけではない。かつてのインド独立に際しての非服従・非暴力は一件相反するようで可能なことである。もちろんその背景には暴力も政治もあったのだから全てではないし、いわゆる差別とは異なるものだが。

さて、では在特会としばき隊と、この二つの差別団体が今後およそどのように活動するべきなのだろうか? 真っ当な考え方からまず始めよう。

 

在特会はそもそもその名の通りいわゆる在日特権の排除が目的である。それ以外にも様々な右翼的と称される政治的発言も行っておりまとめて思想団体となりつつもあるが、発端であるこの特権部分を解決すれば粗方はそれに伴い片付くだろうと思われるものだ。

実際に在日特権なるものがあるかと言えば、特別永住者という資格からして特権と言えるが最も懸念されているのが免税などの優遇策である。これらは確かに逆差別といえるもので、日本人や他の外国人同様の水準に戻すべきであるのは明らかだ。

在特会はこの本来主張すべき点についてを政治の場で行うべきなのだ。デモ活動は市民による平和的政治発言表明方法の一種ではあるが、残念ながら日本におけるそれは有効とはいえない。やったという実績はあるべきだが、デモをした所でマスコミが報道しなければ無いも同然であるし目撃する大衆も腫れ物に触る扱いでまず影響力が無いからだ。無論、マスコミが気に入ればたった十数人規模のデモですら全国ニュースになれるのだが。

だからこそ、在特会を一定の支持母体として政治団体を作り上げ政治の場を戦いの舞台とする必要がある、というのも法治国家だからだけではなく結局は権力が幅を利かすからだ。こうした特権などはまさに政治が取り扱ってる部分が大きいもので、法律なり条例なりで対処すべき部分だろう。

 

しばき隊はどうするべきか? 彼らの原則はレイシスト(差別主義者)を許さないことであり、革マル派などと決別し本来組むべきである国際的な反差別団体と連携して、日本国内だけでなく国際的な反差別団体として動くべきだろう。またその組織についても現在見る限りでは子供の集まりに過ぎず、これを役職や行動範囲を決めた組織としてきちんと統制すべきだろう。

彼らの目的は現在の所、在特会への対抗というものだが、その行動についても厳格にしなければならない、というのもカウンターデモを主眼としているが当然デモ活動には許可が必要であり、差別主義者に対向するためなら集団で行動を無許可占拠しても良いということはない。そもそもデモ活動そのものは法律で認められており、その妨害はやってはならないのだ。

しばき隊としては少人数で在特会のデモ活動を監視し、いわゆるヘイトスピーチが行われているのであればそれを記録して動画なりで公開したり、在特会に対し組織として抗議書簡を送るなど、つまりは行動の妨害ではなく元来主張すべきヘイトスピーチに限った制限をさせていくべきなのだ。その上で問題行動が露呈すれば、被害者と共に裁判を手助けするなり、警察に通報するなりといった、在特会に対するオンブズマン的行動をすれば良いのだ。

では政治に在特会と同じく食い込めば、というのはこれは難しい。人権擁護の促進といった物は政治として主張できるが、特定層に対する差別禁止というのも逆差別になるからだ。やるならばどの層に対する(在特会に対しても)ヘイトスピーチも許されない、という立場から立法していく必要があるが、ドイツにおけるユダヤ人やナチスの扱い、或いはアメリカにおける黒人の扱いのようなものを日本で形成していくには経験が足りない。また先述したように実際に存在する逆差別などの問題も解決する必要があるのだが、それをさて彼らは解決する気があるのかが問題である。

 

さて真っ当な意見はここまでにして、すべてをぶっちゃけていこう。

 

在特会にしてもれば長年鬱憤の積もった在日特権に、日本を衰退させるような左翼売国奴全般について排除すべきというのが本音だろう。ならばやはり、政治を握って特別永住者資格を剥奪すればそもそもの在日という存在そのものが日本からは消えるので前者は解決する。後者の多くは分が悪くなれば身を潜めるだろうが、これも裁判を起こしまくってどんどん中核派なりの団体が暴力的で違法な存在としてしまえば、かなり減らせるだろう。もっとも地下に潜って革命を標榜するテロ団体になる可能性が高いが、それは取り締まっていくしか無いだろう。些か物騒な日本になりそうだが、かつての連続企業爆破事件が起きたような時代に戻ったと思うしか無い。

 

しばき隊はどうするべきか。簡単である、レイシスト反対ではなく正しく気に食わない物反対を標榜して先鋭化していくべきなのだ。中途半端に平和主義や博愛主義を謳うから矛盾が生じるので、彼らなりの価値観と行動基準に照らし合わせて彼らなりの住み良い世界を目指すことを目標としていけば良いのだ。

さりとて自由主義を通り越した自己中集団に組織だって政治だのをするのは困難といえるだろう。反原発を代表するあの議員ですら好き勝手に行動する、には至ってない。それも当然で政治の世界に入ったならばそこでの権力をまず握らなければならないという手間がある。好き勝手に行動したいが第一の彼らには例え議員となれたとしても大変息苦しく鬱憤が貯まるだけだろう。

そうした長期計画ではなく行き当たりばったりで好き勝手をすればいいのだ。団体を名乗ってもそれは組織ではなくグループの名称としてで、何人かのリーダーがいればLINEなり個人的繋がりを利用して行動していける。あとはもう自由に気の向くままに、だ。彼らの根っこは政治や思想ではなく気に入らないものを排除したいというものであり、後は暇さえあればストレス解消に釘バットでも火炎瓶でも各自持ち寄せて現地集合、とすれば良い。犯行予告も出さず個人間で連絡していけばおよそ始めのうちは妨害もされないだろう。在特会のデモが気に入らなければトラックを借りて突っ込んだり、オタクが気に入らなければキモオタ排除を叫びながら秋葉原で暴れたり、腹が減ったら高そうな店に集団で押し寄せ無銭飲食し難癖つけて逃げたり。批難されればレイシストなり極右なり。逮捕されれば切り捨てようが不当逮捕だ言って警察署を燃やすなり。そうやって差別を魔法の言葉にして好き勝手やる集団というのが、彼らが目指すべき本来の姿なのだろう。と私は思う。少なくとも今までの行動で彼らに理念や遵法精神があるようには見えず、彼らの正義(欲望)に従って勝手をやってるようにしか見えない。

 

そんな迷惑集団がのさばる世界は真っ平御免だが、ここに書かれたことが現実になりそうな冗談みたいな世の中である。

科学への理解と求心と

STAP細胞を巡っての論争は先の記者会見で再燃した。

だがそれはここ一ヶ月での捏造認定に始まる流れに楔を打ち込む形となったわけだが。

ノーベル賞もかくやといったSTAP細胞の最初の報道には恐らく多くの人々がその先にある、特に医療分野での大きな活躍と恩恵に期待していた所だろう。だが数日の内に怪しいとされ挙句に捏造認定と理研による報告でSTAP細胞の存在を信じる者は激減したと言って良い。

だが今回の小保方晴子氏の記者会見でこれまで一方的だった理研に反することで、理研側の優位性に揺らぎが出てきている。論文や実験の実証性が揺らぐのではない。世間からの評価が、小保方氏か理研かといった具合になっているのだ。

私が見る限りでは記者会見を受けた各報道はまだ懐疑的な方向で動いているようだが、しかし彼らが捏造が疑われた段階からしばらくの間、理研安倍政権での特定国立研究開発法人指名を取り上げ、いわゆる政治と金の問題として批判していたことは記憶に新しい。その記憶はまだ多くの人に残ってるはずであり、ここから今回の記者会見を受けて、理研による陰謀や癒着に対向する研究者という意識が芽生えてくる可能性は大きい。

現在、理研の最終報告では論文に多大な不備があったことで不正と判断しているもので、実はSTAP細胞そのものがインチキだとしているわけではない。だが化学に限らずだが論文が否定されるということは実質インチキ認定するものであり、少なくともこれだけの騒ぎを起こした小保方氏が今後理研に在籍できるとは思えない。STAP細胞の存在については今後も違う形で検証されていくだろう。そのことを踏まえて私は、この細胞そのものについてはむしろ存在を信じている派だ。初期に報道されたように比較的容易な方法で作成できるのなら、なお良い。

一方で小保方氏についてはどうか? 少なくとも記者会見で画像の取り違えや論文の記述不備などの誤りがあった点は認めており、一大学の研究員ならまだしも理化学研究所という日本を代表する研究機関の一員としては、やはりお粗末だとしか言いようがない。一方ですでに様々な所で言われているように記者会見における小保方氏の隙のない大衆への訴え方(テレビ映えする)は、誰かの入れ知恵でないのならば女優か政治家に転向するべきだろう、というものだった。先述したようにあれで動かされた人は少なくないはずだ。

理研についてはどうか? 組織を守るということを考えれば早々と小保方氏を切り捨てたことは当然と言える。特定国立研究開発法人の件も相まって、そこには政治的要素も動いたことは想像に難くない。だからといって理研を疑うわけではないが、私は少なくともこの理研には問題点があると思っている。

つまりは理研で研究する立場にありながらお粗末な論文を提出してしまえるという点で、理研所属研究者の程度や雇用体制に疑問が生じ、論文のチェック体勢もそうだが大事なはずの論文の精査もできない就業状態についても問題があるのではないかと思えてしまう。

一般に理系の研究者というものが労働基準法を遵守できる立場ではないことはよく聞く話だが、ゼミ生の立場ならともかく比較的恵まれた環境にあるはずの理研ですらそうであるのなら、これは科学研究体勢について抜本から改善しなければならないことを示す。

元より日本は技術大国を自称する一方で技術者に対する評価は芳しくなく、それは最先端の研究から町工場の職人芸に至るまでであろう。本来、もっと敬われ厚遇されるべき人々が低い労働水準や低賃金に嘖まれなければならないのは、大衆の技術への理解度が極めて低いためだけではない。根底の意識として優れたものは大衆に還元すべきだという、単純に言えば富の分配思想にあると私は考える。

金持ちが寄付することを公にすれば偽善と罵られるのは自慢や妬みだけでなく、もっと奥深い所では「やって当たり前」の行きすぎた謙虚さにあるのではないだろうか。そのことが技術にも言えて、研究という物に滅私奉公の精神が求められる。そこには研究者に対し優れた人間性を求めることがあり、逆に言えば優れていない者からの乞食根性とも言える。政治家には政治力よりも金銭への関わりの関心が高いことなども考えればわかるが、日本社会では上に立つあらゆる立場に対して聖人君子を求める傾向にある。つまりは何かに秀でて人々からの尊敬を受ける立場にある者は、尊敬する立場の人々が追いつけないような「あの人は人間からして違う」というような、才能を得ても当然という清廉さが求められる。神様のご褒美と言い換えても良い。これもまた逆に言えば、特に悪いことをしていない(と思い込んでいる)自分が何ら秀でないことが許せないという極めて自己中心的な考えに基づいている。

 

これら総称して「妬み」からなる「謙虚さの強要」をどう脱するかについては、私は少なくとも百年単位での意識改善計画が必要となると考える。ということはつまり、今の短絡的な考えに染まった社会・政治状況では不可能と言うことだ。

現実的に本来は可能なことを考えても、研究者・技術者への本来あるべき対価の支払いや労働環境の改善など、今の社会がとことん嫌っている「無駄な」出費がそれであり、まったく実現する気がしない。

 

昨今理系の重要性を語る人は多いが、その理系がなかなか増えないのは何故か? 未だ続くポスドクの雇用問題にしてもそうだし、人々の理系人に対するギーク的な考えもそうだ。後者については結局、前者の経済的問題を解決すればおよそ解決するだろう。今は根暗などと言う人々も、年収一千万などと言えば簡単に手の平を返す。嘆かわしいのはそういう手の平を返す人々が大衆であり世論とされることだが。

とにかく、すべては払うべき人に払え、ということだ。一体何時になったら「世の中を動かしている」と偉ぶる方々は、アイドルを起用してのイメージ改善だの知って貰おうアピールではなく、稼げる暮らせる生活できるが重要であることに目を向けるのだろうか。分厚い財布を自慢しながら他人の所為にできる、そんな連中の濁りきった目が向けられたとして映りはしないのだろうが。

参考・記者会見詳報

http://www.jiji.com/jc/v4?id=20140409obokata0001

東京都知事選挙が終了してと原発

衆・参議院選挙のように第何回という言い方をしないようで、2014年東京都知事選挙という言い回しになる。数えれば第十九回目となるわけだが、日本の首都における首長を決定するということで毎回注目されるものである。人口で考えても一千万人の有権者数を誇る東京は、日本の有権者総数がおよそ一億人ということを鑑みれば大きな影響力を持つと言える。

面白いことに歴代の都知事を見ていくといずれも無所属らしい。国会でも都議会でも自民党が有利であり舛添要一氏も元自民党議員であるから公認されても問題なさそうに見えるが、そこには無党派層に入れやすくさせたり、自民だけでなく公明にも各種支援が可能なようにという戦術があるらしい。

長く都知事にあった石原慎太郎氏が引退し副知事として石原路線を継承した猪瀬直樹氏が辞職したその後の選挙ということで、石原色から抜けた新しい都政の形を見ることになるはずだった今回の選挙。青島幸男タイプか美濃部亮吉タイプかといった、つまり他者を批判するパフォーマンスで相対的に票を獲得するか、充実した福利厚生を謳ったバラマキで票を獲得するかという様相になる可能性を私は考えていた。しかし実際には時事問題として原発が(無理矢理に)争点にされた感となり、それに伴ってか各候補者も(一部を除き)原発など現実を見据えた公約を掲げて勝負に出てきた。その結果、原発については少なくとも即時廃止という路線にはならなかったわけだが。

さて東京都の現状を見るに、問題視すべきは2020年の東京五輪への準備や老朽化したインフラ整備、首都直下型地震や富士山噴火への備え、労働者の雇用と賃金の格差問題、待機児童問題、そして電力供給問題であろう。

 

はっきり言って東京都がどう動こうと基本的には東京都内の範囲でしか動けないのであり、例えば横浜のどこぞに新しい道路を作るなどというのは当然論点にはならない。無論、都知事として東京都内の問題に関連して周辺各県と協力して何かをするという方向であれば論点に入らなくもない。例えば埼玉にある工場の煤煙が流れてきてひどいからこれを協議して解決する、といったものが該当する。

しかし、原発を存続するか廃止するかというのは話が違う。確かに東京は(東京電力では)新潟県福島県原発からの電力を消費しており、まったくの他人事ではない。しかし実際に立地しているのはいずれも都内ではなく、その建設許可も当然東京都が決めたものではない。ということは、廃止させるにしても国か県か電力会社自身かが動く必要があるわけだ。

ここで東京都の選挙で本来、原発について論点にしても意味が無いことはわかる。だがまったくの無意味ということではない。最初に述べたように一千万の有権者の意見というのは日本国の世論にも影響力は当然あるからだ。

都知事選挙で十万票以上を獲得した四候補の結果を単純に原発の是非だけで見ると、存続派が五割、廃止派が四割といった感じだろう。これは私は日本の世論に近いように思う。まだ日本としての原発の是非はまとめきれていない。

福島原発の事故については、根本的には東日本大震災という未曾有の大災害が原因であることは誰もが理解しているはずだ。しかし事故調査に伴い明るみになってきた東京電力のお粗末さに不安も覚えている。そして長い時間がかかる廃炉作業にも、原発のリスクというものを認識した。だが原発が無くてもなんとかなるというものでもない。現状は節電や延命などの無理をした状態で辛うじて支えられているというだけで、まったく電力危機は脱していない。

現代社会を支える上で電力の安定供給は必須で、しかし原発は危険で、さてどうするか?

原発維持派の考えは簡単で、つまり今まで通りを続ければ良いというものだ。福島原発で何が問題だったかは粗方検証されており、対策さえしっかりとすれば同規模の事故は防げる。問題点はまた福島と同規模以上の事故が発生したらということだが、それに対して維持派は起きた場合でも可能な限り最小限の被害に留める対策法を講じるぐらいしかない。

原発反対派の考えは困難だ。代替手段を考えなければならないが、多くが主張する自然エネルギーの活用は様々な問題を孕んでいる。研究はすべきだが現時点ではすべての原発の代替にするには建設地・費用・安定性の観点から問題点が多い。従来の火力発電を新設するのは堅実であり原発分を賄うことは可能だろう。だが現在でも燃料費が問題になっているように人々への負担は大きい。自然エネルギー発電への繋ぎと考えても数十年は化石エネルギーの多大な消費と電気代の大幅な値上げに耐えなければならない。節電は確かにやらなくてはならないが、原発分を帳消しにするほどの節電となると少なくとも街頭テレビやイルミネーションといったものを楽しむようなことは無くなるだろう。

私自身は実は原発の維持派というわけではない。福島原発の状況を見るに非常電源などの対策は取れるだろうが、それを運用する側の意識が足りない。これは東電特有の体質というのではなく、日本社会によくある「何かあった時の責任」問題にある。対策マニュアルや非常時の訓練はやるべきだが、まず社内でそういう危機管理意識が忌避される傾向にある。そういったことをやると縁起でもない、という馬鹿げた考えが蔓延してるし、考える事自体が不謹慎だみたいな言い方をするのだ。突き詰めれば対策を講じることによるコスト、そして担当者の負担という、やらなければ余計な仕事も費用も増えないという考えだ。

社内だけの問題ではない。周辺住民を始めとする外部の目、というものがある。非常時の訓練をやって、するとまるで事故が起きたかのように騒ぎ立て問題視するというものだ。これの根底には対策をする危険なものがあるという意識部分にある。

原発でそのまま例えよう。原発の事故時の訓練をやったとする、すると周辺住民はそこに危険なものがあると再認識させられる。すると急に不安になったり、建設時の反対派がチャンスとばかりに攻撃をしてくる。些細な不安や解決済みの問題を騒ぎ立てることで、また相手から優遇してもらおうという考え方で、特にこれには原発に反対する団体や政府などを口撃したいマスコミが煽り立て拍車をかける。周辺住民ならば説明会や軽い接待で終わるのだろうが、こうした団体やマスコミには当然騒いでほしくない、そうなると向こう側の担当者は場を収める金や謝罪といった手段に出て、騒ぎ立てる彼らは経済的或いは思想的な満足を得る。そうでなくとも、自身の存続理由として何かの批判をする口を見つけることに躍起になってるのだから、はっきり言って臨時収入が無かったとしても騒ぎ立ててその日の活動日誌を埋めるぐらいは彼らはしたいのである。

こうした問題にしたくない/問題にしたい連中が蔓延って未だに存続している中で、原発を維持することには危機意識がある。原発の技術自体は、老朽化している現在の原発をさっさと稼働停止にして代替として最新技術を用いた原発をさっさと作れと言える程度に信頼している。だが運用している体制、そして周辺に巣食う人々の劣悪さが問題だ。

 

今回の都知事選が終わって、さてその政権を運用する体制そして体制を見守る人々の程度がどうあるか。私はあまり期待していないが、良くあれと願いたい。

守らなければならない情報

特定秘密保護法が可決されるまでの間、メディアを始め各所で大騒ぎになったのは記憶に新しい。それからしばらくして新しいニュースがどんどん流れてきて沈静化するかと思いきや、気がつけばさて秘密保護法で誰それが云々と火を絶やさぬように彼らは必死のようだ。

この法律の内容については語るまでもなく、運用については施行されてからどう解釈されていくかを見ていくしか無いが、少なくとも運用開始直後からの指定は軍事機密といった極々当たり前のものから始まるだろう。

当然、この法律に私は賛成の立場である。運用自体に不安がないわけではないが、それは真っ当ではない政権が使った場合の危惧であり現在の安倍内閣に対する不安ではない。

メディアはとかくこれを政府に都合の悪い情報を隠蔽するため、そして独裁化への道のように語りたいようだが、実際は当然違う。防衛やテロ関連と明記されている以上、無理やりな解釈をすれば可能かもしれないがそれを危惧するなら道を歩いてるだけで軽犯罪法違反になる可能性を論ずるのと同じで不毛といえる。

憶測に過ぎはしないがメディアの考える反対理由は当然こんな独裁化の危惧や国民の不当逮捕といった人々を心配しての行為ではないだろう。彼らにとって情報は金であり手に入れてナンボである。それは政治家の女性関係に限らず潜水艦の耐圧殻の組成も日本を敵対視する国ばかりでなく友好国とて欲しがる、つまり金になる。

彼らの盲目な平和思想・反日思想も多大に関与しているとは思う。なにしろ法律自体は彼らが普段紙面に飾れるようなスキャンダル性のあるもの、つまり一般国民が関心を寄せるものではない。外務省の暗号が一面にあったところで芸能人が結婚したニュースより求心力はない。

ところがその情報、あらゆる外国や政府をやたら監視したい連中にとっては金銀財宝と同じものだ。それが秘密として漏らした公務員は処罰されるとなれば、最低でも小遣い稼ぎで漏らしてるような輩は口を閉ざすだろう。命をかけて収集するようなスパイならば懲役十年程度は何ら障害にならないだろうが。

メディアの反応を見るに、すでにこの秘密に該当するような情報を漏らしている公務員は、つまり彼らに対する情報提供者は相当数いるのだろう。メディアがそれらをどこに流してるかはわからないが、趣味で聞いて提供者に札束を渡すほどさすがに給料はもらっていないだろう。

国内外の著名人や団体がこの法律に反対している。毎度おなじみの特定の国の息がかかった連中は操り人形でわかりやすいが、さてそれ以外はどうだろう。

中にはそもそもこうした情報保護という概念に反対する団体がいる。すべての情報はオープンにされるべきだという。アメリカのテロ対策への疑問や情報ネットワークの広まりにより生まれた自由主義の一種ともいえるが、これはそういった思想だと捉えるべきだ。悪い人ではないといえる、世界中が彼らのような情報思想を持っていれば問題はないだろうが、残念ながら現実にはテロ対策の警備員の配置を知って満足するだけでなく穴を突いて襲撃しようという輩が大勢いるのだ。まあ脳内お花畑と言ってもいいかもしれないが、彼らにはそれなりに考えた理論や根拠があったりするので一概に馬鹿には出来ない。

国内で国会議事堂を取り囲んでる連中はさて彼らと同じに見るべきかといえば、それはNOだ。彼らの多くは反米基地活動をしている市民団体と同じく動員されて指示書を見れば、朝にはアメリカのイージス艦入港反対、昼には中国の駆逐艦大歓迎ニーハオ、夕方には日当をもらってチェーンの居酒屋で打ち上げするような連中だ。馬鹿にして良い。

そうしたアルバイトばかりでもない。半ば本気でこういった活動に邁進している連中もいる。その多くはかつての学生運動からか夢見てか後追いか戻ってか、とかくこうした正義の行動に何らかの理由があって参加している。共通して、その夢を見なければ生きていく理由に欠ける連中だ。仕事、家庭、友人、そうしたものに恵まれない可哀想な人と言っても良い。本気でこれが国を変えると信じてるような人でも、家に帰れば誰とも喋らずカップ麺をすするというのが実態だろう。アルコールに逃げているのと変わりはしない。

残りはでは本国からの指令に基づいてるか、といえばそれはまだ少ない。というか首謀者といえる立場なので現場ではなく事務所にいるか銀座の飲み屋にいるであろう。残りは先の夢見る人々と似ているが少し違う、いわばいつでもいる最近の若者というやつだ。鬱屈した青春の衝動だとかが、青年海外ボランティアやスポーツや起業といった方向に向かず市民活動に走ってしまった熱血漢。そしてお祭り騒ぎだからとりあえず便乗しておこうという頭の悪い(ある意味良い)奴らだ。前者は、若いうちに左翼に走らないものは情熱がないと言われるぐらいなので仕方がないといえる。政府の情報隠蔽フリーメイソンの世界支配に思いを馳せて、しかし実際には権力者でもなんでもないただの若者なのでシュプレヒコールを上げることから始めたとか、そういうのだ。いずれ就活で日常に戻っていくようなものだが、中には熱中しすぎて本能となってしまい海外で空港爆破するような連中にスカウトされかねないから危険といえば危険である。

遊びでの参加は、これは心配の必要は多少ある。宗教セミナーやらと同じでなんとなく参加していたのがそのうち虜になってしまい、熱血左翼青年に大変身といった危険性がある。遊びでこんなのに参加するぐらいだから退屈な青春を送っていると考えれば何かに熱中できるようになるのは本人は幸せかもしれないが、その幸せが人を殺すことになってはならない。

他にはまあ、単なる反発心だとかのつまらない理由はあるだろうが無視して良いだろう。

著名人や有名人の反対者は、背後に外国や政党がちらついていればわかりやすい。そうでないのは戦時中の記憶だとかそういったのを理由にしているが、メディアに踊らされているか発言を切り取られたか金をもらったか法案を見ずタイトルだけ見ているか、そういったものが多いだろう。他国も政治勢力も関係なく本気で語っているとすればそれは本人の思想なので直しようはまったくない。俺の若いころは云々と脚色した過去を話すオヤジと変わりはしない。

では私はそうした思想に固まっているか? 可能性は微粒子レベルで存在するかもしれないが、法案をきちんと読んだ上で判断しているのでその可能性はないといって良い。暗号や防衛機密を漏らしたらどうなるか、漏らしたら処罰されるのは当然ではないだろうか? 漏れたことが発覚すれば対策に税金を費やさなければならないし、それで国民が危機にさらされる危険性を考えれば当然のことである。

ああ、メディアの稼ぎ方がもうひとつあった。

無理やり聞き出す、そして報じる。漏らした公務員は処罰され市民団体は騒げるし自分達は厚顔無恥に漏らした公務員ひいては政府を攻撃できる。無理やり聞き出したことがバレて処罰されそうになればジャーナリズムと反政府でまた騒げる、まずくなってきたら折り合いをつけて尻尾切りをする。

最後はどうするか。漏れたことで政府は対策に税金を投入し、それを無駄遣いと批判する。なんと無理やりにでも漏らせば一石三鳥である。

それが通用するか否かは国民の意識次第であるわけだが、私はそんなメディアの汚いやり方を批判できる国民でありたい。

いまさら消費税

来年4月からの8%移行なので今更というほど遅くもない。むしろこれからが議論なり政権叩きなりに世間が騒がしくなるものであり、本番を迎えればその喧騒は絶叫の如くとなるのであろう。

消費税は御存知の通り現在5%の税率で所得に関係なく消費者は物品を購入すれば支払うこととなる。厳密には納税そのものは小売店など実際に商品販売をしている業者側が行うのだが。金持ちにも貧乏にも老いも若いも関係なく徴収できるので公平といえば公平な徴収システムだが、端的に考えて一億円中の500万と百万中の5万の違いは大きい。低所得者ならば絶対的な金額の負担は大きいと言える。当然、この問題点は既出だ。

かつて消費税の前に物品税というものが日本にはあった。贅沢税といえるものであり宝石や車など以外にレコードなどの嗜好品もこれの対象だった。消費税議論で欧米が食品には低税率にしているという話をよく聞くが、この物品税はそれとほぼ同じ仕組みであり欧米が真似したもの、らしい。最近の消費税議論では逆輸入でこの物品別の軽減を導入すべきだというが、日本で消費税に物品税がその座を譲ったのは、対象品目があまりに多くしかも新カテゴリの商品が出れば法改正まで対象物にできないといった問題、不公平感などが問題視された為だという。今の時代に欧州で培った物品別軽減税率のやり方を導入すれば随分マシになるのだろうが、果たして良い点を良いままに導入できるのか甚だ疑問である。表層的な部分だけ取り入れて終了となってしまう恐れは十分考えられる。

さて物品別の軽減税率の話をもう少し続ける。よくイギリスでは食料品は0%だなどと聞くが実際イギリス以外はどうなのかと色々見てみたが、意外と10%代の国は多い。基本的な消費税率が20%を超えるような国でそのケースが多いようだが確かに税率だけ見れば軽減されている。日本が目指す一律10%はむしろ低い部類に入るのだ。

さて消費税を上げるのは日本の抱える俗にいう借金の返済を主とする財政健全化のためだが、消費税は現在国税収入の20%前後を占めているようである。特別会計分まで含めれば40%近くとかなり大きい。税率が上がればそのまま倍加といかなくとも国税収入には少なくない割合で寄与することとなる。

この消費税上げで財政健全化は言うまでもなくIMF勧告が大きく影響している。国際機関が日本の消費税上げねえとマジやばいよこいつらと言ってるようなものであるから、国債の格付けへの影響は無いとはいえない。IMFに随分金を出している日本がこのようなことを言われるのは気分が悪いが。

だがしかし財政健全化はやるに越したことはない。消費税を上げることで果たしてどう転ぶかは政治家も経済学者も良い悪いのどちらの論者も多くいるからして、導入しなければ分からないというのが現実なのだろう。

政府は消費税上げに合わせて各種経済対策も行うとしており、それは当然考えられることだからやるべきだが、果たしてどこまで増税による冷えを押さえ込めるかには期待していない。

この消費税増税に合わせて当然、経団連といった経済界は法人税のさらなる減税や自動車関連の税を無くすよう求めている。企業としては消費税分の負担をそれで帳消し或いは軽減したいというのは見え見えで、まあ当然やるだろうなということだ。新聞などもっとわかりやすく、新聞は公共的だから見逃せの大合唱は笑えるぐらいにわかりやすい。日本の財政について新聞も随分問題視していたはずだが、自分達の売上は減らしたくないと必死である。つまり財政状態に文句はつけるが健全化には寄与したくない、ということだ。

私自身はさて消費税上昇に賛否どちらかと問われれば、そりゃ負担は少ないほうが良い。だが私はこの国の経済がそれで持つと考えるほど楽観的ではないので、諦観をもってそれを受け容れざるを得ないのだ。

さて財政が問題視されているがその財政を膨らませているのは社会福祉という風船だ。これを補うためには税収を増やすしか無い。だが当然この風船が膨らむのは北欧諸国のような充実したサービスという質向上のためではなく、受益者が増えていることにある。故に例え莫大な税金を課したとしても、それは向上のためではなく破裂を回避するための犠牲にしかならない。無益なことだが、将来破裂したら悲惨になるぞと脅されまくっているのだから従うしか無いのだ。

今、社会の中核を担う世代がこれの負担に直面し、さらに若い世代が継続する。私は年寄りになった時にそれなりの生活を送りたいので今の年寄りにやれ若者の生き血をすするだのと言いたくはないが、現実にはそうなっている。

これらを解決するためにはさてどうするべきか。

私は効率化を進めるしかないと考えている。年金を見てわかる通り、焼け石に水を続けていれば遠からずして国民は破綻する。制度は名前だけ生きて負担する世代は受け取る前に死んでいく、そして国は滅亡するという流れは回避しなければならない。

憲法改正も議論されているが、現代に合わせたスタイルに国家財政も刷新しなければなるまい。リヤカーで狭い範囲を物売りをしていた時代と、自宅を倉庫代わりに全国へ物を売る時代とは明らかに違うのだ。

企業も当然意識改革が必要だ。海外に負けて倒産して失業者が溢れるなどというのを脅し文句に、自らを――主に責任者たる役員がいる間を――帳簿の上だけでも成長企業にしようなどというのは愚かだ。かつてフォード社が労働時間を短縮し金融機関から非効率的だと非難されても給料を上げ、まず自社の社員は車を買えるようにとしたのは有名な話だ。その裏には大量生産に始まるコストカットがあるが、当然社員のモチベーションも寄与しているだろう。現在の社会はどうか? コストカットは=人件費カットや下請けへの値下げ強要であり、自社の製品を社員が買えるかなど気にもしていない。庶民の味方の値下げ宣言がその実庶民の収入を減らしてという看板だけの値下げとは皮肉なものだ。

そろそろまとめよう。消費税増税は私は所詮一時しのぎに過ぎないと考えている。多くの消費者には負担になるだろうし、企業はその分を法人税下げなどで補填できるが個人はそうはいかない。しばらくはまた所謂実感のない好景気となるだろう。

問題はその先だ。消費税増税は一時しのぎに過ぎないのだから、もっと抜本的な経済対策が必要だ。ここで企業がきちんと給料を上げるかどうかが焦点となる。なにかと株主還元第一で給与上げは役員と癒着した労組に阻まれパフォーマンスに終わるのであれば意味が無いし、そもそもそれを享受できる雇用がなければ仕方がない。国がいくら企業負担を軽減しようと、それを社員に還元しないのであればまさに今しか見てない愚者である。

とりあえず、駆け込み需要などという夢を見る輩は信じたくない。そんな一過性のものがあっても肝心の給料には結びつかないのである。景気が悪いのは誰の所為かお偉方は少しぐらい知ってくれないものだろうか。無理だな。